ちょっと前に劇場公開された作品ですが、中島哲也監督のホラー映画『来る』を観ました。そのレビューになります。
『来る』のレビュー
ネット上でいくつか見たレビューの中には、「原作にある"ぼぎわん"が出てこない」という点から「ホラー映画じゃない」「惜しい作品」といった意見がありましたが、それに対して自分としては「それは違う。お前分かってないぞ」という立場です。
映画『来る』の原作は、澤村伊智さんのホラー小説『ぼぎわんが、来る』。第22回日本ホラー小説大賞の大賞を受賞した作品です。タイトルにあるように「ぼぎわん」という存在が、ある平和な家庭に「来る」というお話であり、映画もそのストーリーは遵守しているのですが、映画は謎の存在「ぼぎわん」について、その正体について、ほぼ明かされないまま展開し物語は終わります。たしかに原作を読んだ人からすると、重要なファクターが完全に抜け落ちているわけですから、落胆する気持ちも分からなくはありません。『メタルギアソリッド』にメタルギアが出てこない感じでしょうか。
ただ、僕は小説の映画化において、原作のストーリーをなぞって映像化したものは、大抵の場合、映画としては不正解だと思っています(例外として、それが正解である作品もある)。
そもそも映画に決まりきった「かくあるべき」という方程式を設けるほうがナンセンスなのかもしれませんが、120分といった限られた時間の中で、何を伝えるか、を凝縮して追求して映画は作られていきます。原作に小説がある場合、文字だけで世界観を構築し、読者を引き付けていく必要がある小説は情報量が多いため、映画化において、何を切り取って何を残すか、という取捨選択を迫られます。この選択において、監督が原作をどこまで分かっているかという理解力と、何を伝えたいのかという強い意志が、作品の方向性を決定づけるといえるでしょう。
原作に出てくる「ぼぎわん」を出さない。タイトルからも「ぼぎわん」を消す。この決断が監督によるものかは分かりませんが、かなり大胆な決断です。しかし、俺はそれが正解だと思いました。
「ぼぎわん」とは妖怪という解釈が原作にはあります。妖怪とは、起きた現象に対して、名前と形が与えられたものです。名前と形を与えることで人によって認識され、知っているものになる。知っているものは恐怖ではなくなる。このようにして人々は妖怪と共存してきました。しかし、ホラー映画としては、「恐怖ではなくなる」というところが厄介です。原作小説における「ぼぎわん」は正体不明の存在として登場します。「ぼぎわん」自体が原作者である澤村伊智さんのオリジナルですので、読者の誰もが知らない存在です。知らないからこそ、怖い。しかし、小説では「ぼぎわん」についてある程度の解釈がなされるため、読者は「ぼぎわん」を知ることで、よく分からないものへの恐怖から解放されます。
つまり、何が言いたいかというと、
この映画は、「ぼぎわん」の恐怖を甦らせるために、あえて解説を入れず、名前もつけず、「まったくよく分からないもの」として描いたのです。きちんと描かないことで恐怖を煽る。これは、映画としては結構使い古された手法ではありますが、日本におけるホラー映画としては一周回って斬新。あの『リング』の貞子も、原作小説では容姿について描写はなく、髪の長い白いドレスを着た少女は、映画オリジナルでした。対象を描かないことで恐怖を煽る映画は、撮り方を間違えると本当に駄作になってしまうリスクがあります。学生作品なんか大抵失敗しています。しかし、『来る』のメガホンを取っているのは、あの中島哲也監督。長年CM畑で生きてこられたこともあり、1シーンに情報を詰めて観客にどう思わせるかの映像づくりに長けています。その監督が恐怖をテーマにした映像をつくるわけですから、『来る』は美しくそら怖ろしいホラー映画になったと俺は感じた次第です。
作風としては、スタンリー・キューブリック監督作品の『シャイニング』に近い作品といえるかもしれません。ゆえに、モンスターホラー映画を求めていると、たぶん、肩すかしをくらうことになるでしょう。前述したレビューを書いた人たちは、おそらく作品の見方を間違えっちゃったんじゃないかな。こういう恐怖の描きかたもアリだと思うんですよね。
『来る』のストーリー
会社員の田原は、妻の香奈と一人娘の知紗の明るく楽しい家庭を築いていた。その様子は、イクメンパパのブログに公開され、多くのフォロワーがいるほど。そんな時、田原は娘の「知紗」の名前の由来を聞かれる。即答できなかった田原。それは、なぜか急に頭に浮かんだ名前。どこで聞いた名前?そして田原は、幼いころ、自分の同級生の女の子が行方不明になったことを思い出す。行方不明になる前、彼女は言っていた。「呼ばれている」と。
突如、平和な田原家に、謎の現象が起き始める。それは、飾っていたお守りを引きちぎり、愛する妻と娘に迫ってくる正体不明の存在。田原は親友の津田に相談し、そういう系のことにくわしいライターの野崎を紹介してもらう。野崎のカノジョであるキャバ嬢のマコトは、田原を霊視して、あることを告げる。そして田原は激昂する。マコトが言い当てたことは、田原が気づいていながら努めて気づかないようにしていたことだったからだ。
田原家はすでに崩壊していた。ブログに書かれている幸せな家庭なんて、どこにも存在していなかったのだ。誰もが嘘をついている。誰もが誰かを欺いている。そして、人の心に溜めこんだ闇を、"アイツ"は捕食しにくる。凶暴になった"アイツ"は、人の心の闇を食べて、大きく凶暴になっていき、鮮血が舞い、肉がはじけ、腕が吹き飛び、おびただしい血を吐き出し、人が次々と死んでいく。
マコトが"アイツ"の攻撃に倒れたとき、1人の女があらわれる。彼女の名前は、比嘉琴子。日本最強の霊媒師。
『来る』のダイジェスト
『来る』の感想
Jホラーといわれたブームが収束し、呪いというシステムに組み込まれた少女貞子がただのモンスターと化し、ついには『貞子vs伽椰子』という毒にも薬にもならないC級映画が生まれた平成。和風の恐怖を感じさせてくれるのは映画『残穢』くらいしかありませんでした。が、『来る』は日本映画界のホラー部門に新しい風を起こす傑作だと個人的には思っています。
恐怖とは何なのか。ホラー映画の神髄は、この問いかけです。『来る』は人の心に潜む闇を描いています。それは、誰しもが自分の事と感じてしまう共感性を孕んでいるからこそ、この映画は他人事として観れない怖さがあるのかもしれません。人はいろんな側面があって、ある人にとっては善人でも、ある人にとっては悪人だったり。その逆のも然り。そんな人の弱さと怖さが、とてもよく描かれている作品でした。
小松菜奈が演じるマコトと、松たか子が演じる琴子は姉妹であり、原作小説では比嘉姉妹シリーズとしてすべての作品に登場します。キャバ嬢という側面を持ちながら、子どもに対して惜しみない愛情を注ぐことができるマコト。マコトのことを愚かな妹と罵り、遠ざけながら、誰よりも妹の身を案じている琴子。そんな2人の人間らしい不器用さも観ていて心地よかったです。とにかく、普通のホラー映画ではないので要注意。最後まで展開が読めない。ハラハラさせてくれる映画でした。中島哲也監督は、やっぱり最高ですね。