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高知県にある『高知城』は、市街地からすぐ行ける場所にあって、江戸時代のカルチャーを感じられる場所だった話。

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高知城は、高知市街から歩いて5分くらいのところにある国の重要文化財だよ。何が有名かというと、「本丸の建造物が完全に残る唯一の城」らしいね。明治になってからの廃城令、太平洋戦争の空襲といった危機をくぐり抜け、江戸時代の「城」としてここまでカタチが残っているのは、とても珍しいんだってさ。

 

 

 

 

高知城って、どういうところ?

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見て分かる通り、大阪城とか名古屋城に比べると「こじんまりしているお城」に見えるかもしれません。しかし、日本国内の観光スポットになっている城が、明治以降に建て直されたものが多い中、この高知城は、一度焼失しちゃっているのですが、宝暦3年(1753年)に再建されたカタチがほぼそのまま残っているところが推しポイントです。石垣の組み方など拙さに見えるところも、当時の最新技術が現存している証として見るべきでしょう。

 

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高知城は、高知市内にある大高坂山にある、梯郭式(ていかくしき)平山城(ひらやまじょう)です。「平山城」というのは平地にあるちょっとした丘陵に建てられた城のことで、「梯郭式」とは本丸の前に二の丸、三の丸が囲っていく段々形式の建て方のこと。本丸のすぐ後ろは天然の断崖絶壁で守られている、という作りだそうです。

 

高知城が本格的に作られたのは関ヶ原の戦いの後。山内一豊(やまうち かつとよ)土佐藩を任されることになって、この地にやってきた時に建てられました。しかし、建てるには大きな課題があったのです。それはこの土地の水はけの悪さ。立地が鏡川と江ノ口川の2つに挟まれたテルタ地帯の湿原であり、水害がとても多い場所でした。しかし、浦戸湾に面した地の利があったため、山内一豊はなんとかしてここに城を建てたいと思っていました。そこで目を付けたのが、関ヶ原の戦いで罪人となり、京都で謹慎処分をくらっていた旧・織田秀信家老の百々綱家(どど つないえ)です。

 

百々綱家は一豊と同郷の近江出身であり、石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていました。一豊は綱家の赦免と雇用をビッグボスである徳川家康に嘆願し認められ、綱家に新しい城の築城を命じるのでした。その翌月から綱家は、大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らといった土木のプロフェッショナルたちを引き連れ、大高坂山に本丸の造営と城下町の整備のために鏡川・江ノ口川の治水工事に着手しました。

 

慶長8年(1603年)に本丸と二ノ丸の石垣が完成。一豊は9月26日に入城。この時、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、当初大高坂城と呼ばれていたものを、「河中山城(こうちやまじょう)」と改名します。少し時が過ぎて、慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主・忠義が「名前が良くないんじゃないか疑惑」を言い出し、PR会社として真如寺は避けて、新しいPR会社の新進気鋭のコピーライターをと注文したところ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)から、音はそのままに漢字を変えて「高智山城」というプレゼン案が提出され、「いいんじゃね?」となりました。このネーミングが後に省略されて「高知城」と呼ばれるようになり、街の名前も「高知」となったそうな。

 

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戦国の夜が終わった江戸時代に建てられた城なのですが、城の作りとしては戦国時代の「要塞」としての機能が残されていました。石垣を登ってくる忍者避けのための「忍び返し」、攻めてきた敵に上から石を落とす「石落とし」、隠し部屋や隠し貯蔵庫なども残っていました。

 

城というのは、時の成功者が住む当時のタワーマンションみたいなところだと思うのですが、限られたスペースを有効活用した上でのパニックルーム(女子供の緊急避難場所)やウォークインフードルーム(食料貯蔵庫)などが設備されており、日本の住宅様式というか住空間の建築思考は、「今と大きく変わらないんだなぁ」と思ったりもしました。

 

ちなみに、本丸は3層6階建てなのですが、傾斜角75度くらいの急な階段しかないので、足の悪い方、膝の悪い方は、天守閣に行くのは難しいでしょう。バリアフリーに対応していないところも当時のままであり、ポイントではないでしょうか。

 

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そんな高知城の鬼瓦には、ハートマークを見ることができます。これは「猪の目」といわれる模様で、猪の目がモチーフになっているものだとか。この猪の目には災厄避けという意味があり、高知城の場合は「火災」避けが念じられていたそうです。水害の話ばかり出てきましたが、当時の建物はとかく火に弱かったわけで。このようなまじないが施されていたんですね。

 

太平洋戦争では高知市街にも空襲があり、街は焼け野原になったそうですが、この高知城はほとんど被害がなかったとか。という意味では、猪の目の効果があったのかもしれません。

 

こんな風に、
高知城は江戸時代のカルチャーを身近に感じられるスポットでした。

 

 

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